「冒険遊び場」って、何だ?


冒険遊び場とは

 

1.だれでも遊べる野外の遊び場

2.遊びを見守る大人がいる

3.地域に根づいた運営

 

子どもたちの「やりたい」気持ちを大切にし、

禁止事項をなるべくなくした遊び場です。

 

「子どもが毎日思いっきり遊べる場所を我がまちにつくろう!」と

地域の大人が知恵を出し合い、ボランティアで運営します。

 

毎日の常設遊び場から時々の出張遊び場まで、

地域や活動者の実情に合わせてさまざまなカタチがあります。

冒険遊び場づくりの歴史

 

世界で最初の冒険遊び場は、1943年コペンハーゲンにつくられた「エンドラップ廃材遊び場」です。 「廃材遊び場」を提案したのはデンマークの造園家ソーレンセン教授、こぎれいな遊び場よりも、ガラクタのころがっている空き地や資材置き場で子どもたちが大喜びで遊んでいる、という長年の観察にもとづいたものでした。

 

大戦直後にエンドラップを訪れたイギリスの造園家アレン卿夫人は深く感銘を受けてその思想を持ち帰り、世論を喚起して、ロンドンの冒険遊び場運動を隆盛させました。

イギリスで力強い大きな流れとなった冒険遊び場づくりは、発祥の地、デンマークに逆輸入され、やがて1950~70年代を中心に、スウェーデン、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、オーストラリアにも広がっていきました。現在、ヨーロッパ全体で1,000カ所程度の冒険遊び場があります。

 

 

日本では1970年代半ば、大村虔一・璋子夫妻が、アレン卿婦人の著書『都市の遊び場』を翻訳したことが、冒険遊び場づくりのきっかけとなりました。

 

大村夫妻は、子どもたちの遊び環境が自らの子ども時代とあまりに変わっていることに危機感を覚え、ヨーロッパの冒険遊び場のことを紹介しながら学校のPTAや地域の人たちに「こんな遊び場をつくろう」と呼びかけました。そして、東京都世田谷区に冒険遊び場「経堂こども天国」が生まれました。

 

「経堂こども天国」は緑道建設予定地を借りて1975、76年の夏休みに行なわれ、地域住民と学生ボランティアによる「遊ぼう会」が運営にあたりました。

1977~78年には、近くの区民センター建設予定地に場所を移し、「桜ヶ丘冒険遊び場」を、18ヶ月間ほぼ毎日、「遊ぼう会」の力で運営しました。

 

こうした取り組みが評価され、1979年、国際児童年記念事業として、世田谷区は地域住民とともに冒険遊び場「羽根木プレーパーク」を開設しました。その後羽根木プレーパークは現在まで、世田谷区が事業として位置づけ地域住民が運営するというスタイルで続く、日本で最初の常設の冒険遊び場となっています。

 

この世田谷区のプレーパークの取り組みが牽引役となって、冒険遊び場づくりの活動は草の根的に全国に広がりました。地域住民による運営が広がっているのは、世界的に見た日本の冒険遊び場づくりの特徴といえます。

1990年代後半からは飛躍的に活動団体が増え、2011年現在全国約270の団体が、それぞれ遊び場の活動を行っています。